姓名: TheStalin 英文名:- 性别:- 国籍:- 出生地:- 语言:- 生日:- 星座:- 身高:- 体重:-
小档案
金子あつし (1980年 - 1981年) - 初代ギター
北海道旭川市生まれ。中学生の時に学力テスト道内ベスト10に入ったら何でも好きな物を買ってやる、との約束で「ジミヘンと同じ」フェンダーストラトキャスターとマーシャルユニット3を買い与えられる。その後、父親にクラシックギターを手ほどきされつつ、市内マチイ楽器店従業員東海林氏酒井氏らにブルースギターの基本を習う。後にヤマハポピュラーソングコンテストから中央進出を果たし、井上陽水に見いだされることになる安全地帯のインスト隊となった、六土開正グループを支えていたのも彼ら二名であった。同時期、16歳の時に安全地帯とライバル視されていた「注意報」に短い期間だが、ベーシストとしても参加した。ギタリストの畠山は、影響を及ぼしたミュージシャンの一人、と後にDOLL誌に答えている。当時はフォークソング全盛であり、大音響を発するロックバンドは自主スタジオを郊外の空き家などを借りて運営しているのが北海道では常だった。周囲10kmには何も無い環境が簡単に得られたようで、北海道ならではのエピソードであるが、金子はここでアンプ音量を絞らずにコントロールする事を学ぶ。クリアな音からハードな音までピッキングだけでコントロールしていたのが、後の『電動コケシ』で聞ける。しかしライブでは弦を叩き切り、指を血まみれにしていく事になる。当時、マーシャルなどの機材を置いているハウスは無かったのである。なお、音楽と同時に登山に熱心であり、北海道旭川東高等学校山岳部で先輩の竹田敦永江朗らとパーティを組み、高体連では禁止されていたロッククライミングまで楽しんでいた。進学と同時に上京し、かねてより連絡を取っていた遠藤や乾らと共にセッションを行う。その後、自閉体、スターリンを結成。脱退後は当時としては偉容な個人スタジオで非常階段のプロデュース等を故林直人(元INU、アウシュビッツのギタリスト、アルケミーレコード専務)と行う。初期のスターリン音源は4トラックしかない彼の個人所有のマルチトラックレコーダーで録音されていた。初来日したサイケデリックファーズのリチャードバトラー(ギタリスト)が日本で一番気になるギタリスト、とミュージックライフ誌で答えていたが、金子本人は「全く知らなかったし、興味もない」と言っている。2008年新宿でのライブで遠藤と27年ぶりに再開。
タム (1981年 - 1982年) - 2代目ギター
1958年、東京都浅草に生まれる。本名は田村和男。ザスターリン加入前はや元あぶらだこのイズミやGAUZEのシンらと「チフス」というバンドで活動していた。また、彼の実家は靴屋で、そこで靴職人として働いていた経歴も持つ。ザスターリン脱退後はADKレコードというインディーズレーベルを設立し、あぶらだこ、LSD、GAUZE、MASTURBATION、奇形児、アックスボンバー、リアクション、モルグなど多数のバンドのプロデュースを担当し、タム本人も「G-ZET」や「ブラッドベリ」というバンドを結成。自主制作ソロアルバムも2枚ほど発表するが、金銭面のもつれなどもあり、1985年7月某日、大阪エッグブラントでのライブ後に失踪。消息不明となる。
藤岡良次雄 (1983年) - 3代目ギター
原爆オナニーズから参加。脱退後は中村達也らとTHE GODを結成。
JUNE-BLEED (THE WILLARDのJUN)(1984年) - 4代目ギター
北田昌宏 (1984年) - 5代目ギター元INUのメンバー
小野昌之 (ex ALLERGY) (1984年 - 1985年) - 6代目ギター
ザスターリン解散後も遠藤と勢力的な活動を続けていたが、Michiro,Get the Help!解散後、音楽業界から引退。現在は電気工事関係の会社で働いているらしい。
杉山晋太郎 (1980年 - 1983年) - 初代ベース
1960年、福岡市博多区生まれ。ステージ上では他のメンバー同様攻撃的なルックスで演奏しているが、普段は温厚な青年。元々は乾と同じく美大生だった。最初は全くベースを弾けなかったがスターリン加入のためにミチロウや金子あつしと2ヶ月ほど練習した。その後遠藤に「お互い、顔見飽きちゃったね」と言ってスターリンを脱退。晋太郎は脱退後、泥の川、吉野大作&プロスティテュートや、NEWTON'S、非常階段、ソロ活動等を経て、音楽業界から引退。日本アルプス近くの山小屋の経営を始める。1995年、ザスターリン解散10周年イベントへの出演をミチロウが誘ったところ、「オレもうできないよ。こんなに太っちゃったし。今はただの山小屋の主人だ」と断られたそうだ。この頃すでにアルコールへの依存はかなりのものだったらしい。その後(1996年)、自宅の階段を泥酔状態で滑り落ちて死亡。享年36。
尾形テルヤ (1983年) - 2代目ベース
遠藤がザスターリン結成前に組んでいたバンド「自閉隊」の元メンバー。
肥後宏(元3/3、ミラーズ、チャンスオペレーション 現渋さ知らズ)(1984年 - 1985年) - 3代目ベース
サポートメンバーであり、正式なメンバーではない。
乾純 (1980年 - 1982年、1984年 - 1985年) - 初代+5代目ドラムス
1959年兵庫県神戸市生まれ。多摩美術大学卒。普段は温厚だが、興奮すると非常に気が荒く、ライブではドラムセットを放り投げるパフォーマンスを繰り返し、観客にケガをさせたこともある。遠藤が上京後、初めて結成したバンド「コケシドール」からの固定メンバー。遠藤との付き合いは長く、コケシドール解散後も「バラシ」「自閉隊」などで共に活動。ザスターリン解散後は「連続射殺魔」や肥後宏率いる「チャンスオペレーション」などに参加。その後、音楽業界から引退し、建築家として働いていた。現在は東京大阪に建築会社の支社を開設し、建築の他にも各種のコンサルテーションを広く行っている。初代ギタリストの金子とは建設物件査察の時に米国で90年代に再会。当時、金子は日本でフレームリレー装置の専門家であったために「輸出」されていたらしい。以降、IT系にも進出の模様。当初から最後まで、金子は遠藤よりも乾と音楽をやる事が重要であったようだ。
小田ヒトシ(元ソドム) (1982年) - 2代目ドラムス
中田ケイゴ (1982年) - 3代目ドラムス
脱退後はタムと「G-ZET」を結成。タム失踪後はNICKEY & THE WARRIORSやTHE STAR CLUB、COBRAで活動していた。評論家の吉田豪と仲が良い。
中村達也(元THE STAR CLUB、BLANKEY JET CITY他)(1983年) - 4代目ドラムス
ツアー中のドラマーとして加入。当時高校生だった彼はスターリンのオーディションを受けるために髪型をモヒカンにして挑んだ。しかし、後に学校で先生にこっ酷く叱られることになる。脱退後はTHE GODや、MASTURBATIONなどで活躍。
小简介
The Stalin,是20世纪80年代初最重最黑暗的日本的朋克乐队之一,硬核摇滚的中坚力量。
1979年,在东京地下音乐圈中厮混已久的远藤michiro组建了这支日后成为经典的乐队。
远藤michiro当时已年近30,跟过友部正人(关西folk大佬之一),亦跑过南洋。
履历与见识高人一等的他,一开始就决心开创一个日本摇滚的新局面。
于是他组队不久,立刻成立自己的独立厂牌。而乐队取名"斯大林",也意味着"暴力+独裁"政治暗示。
其后,The Stalin的现场以过激的全裸演出和充斥暴力的场面而臭名昭著,甚至因此被捕。
但他们以异端者自居的主张,不仅吸引了一大批忠实的追随者,更受到许多同行的肯定。
1982年,乐队在发行了几张唱片之后,终于浮上地面,发行了第一张主流公司代理的唱片《Stop Jap》。
这张大音量的,充满噪音和突然性,黑暗混乱和刺激感于一体的硬核摇滚大作,将他们一举推上了日本朋克摇滚的巅峰宝座。
作为一支远藤michiro个人乐队,The Stalin其他成员过多的变更,以及屡次因过激行为而东窗事发,
均预示着这支充满危险性的乐队不会长久。
果然,乐队在1984年发表了《虫》和《Fish Inn》两张大碟后失去动力。
1985年乐队解散后,远藤michiro重新开始个人历程。
作为当今日本朋克摇滚的大佬,虽然他不再像以往那般言行激烈,但却依然孜孜不倦的营造其华丽的黑暗世界。
同時期にデビューしたじゃがたら、INUなどと並んで日本のパンクロックハードコアシーンで脚光を浴びた。攻撃的なサウンドに言葉遊びを織り交ぜた、一捻りも二捻りもした歌詞で皮肉を込めて攻撃する形式は斬新であった。ライブ会場では豚の頭や臓物を客席に投げつけ、爆竹や花火を投げ込み、全裸でステージから放尿し、客にフェラチオをさせるといった過激行為で悪名を轟かせる。東京のライブハウス「屋根裏」を破壊し、出入り禁止になったことがある。また文化祭ライブで全裸になり、逮捕された事もある。
そうした過激な行為が評判となり、81年9月に週刊誌「女性自身」に彼らの記事が掲載され、一躍マスコミの標的となる。スターリンが他のバンドと違ったのは自ら積極的に雑誌やTVなどのメディアを利用し、活動をアピールしてきた所であり、音楽、芸能問わず数々のメディアに登場していた。また、遠藤はライブ中は過激なパフォーマンスを見せるが、インタビューなどを見ると実際は物静かで知的な男で、冷静に自分や周囲の事を見ていた。
その一方で、一部の暴力的なハードコアパンクス達からは知的なパンクを演奏するスターリンは異端児の様な扱いを受け、嫌われるという事もあった。また石井聰亙監督の映画「爆裂都市」に役者として参加した際、打ち上げにパンクバンドアナーキーのボーカル仲野茂が何故自分達を起用しなかったのかと殴りこんできた。このこともあってか、暫くバンド同士でいがみ合っていたが、映画で共演した泉谷しげるの仲裁もあって、現在は和解している。またスターリン結成15周年イベントには仲野茂が参加している。
1985年解散。1987年、ビデオのみをリリースするというコンセプトで、遠藤以外のメンバーを一新したビデオスターリンを結成。2本のビデオ作品と1枚のアルバムをリリースし、1年ほどで解散。
また、1989年には新たなメンバーを迎え、ザのつかないスターリンとして復活し、 5枚のアルバム、2本のビデオをリリースするも、1993年に活動停止した。
2001年には、元頭脳警察のパンタや大槻ケンヂ、犬神サーカス団、BRAWLS(BRAHMAN)、Loopusなどが参加したトリビュート盤『365:A TRIBUTE TO THE STALIN』がリリースされ、それに合わせて21世紀最初で最後となるザスターリン復活ライブが行われた。トリビュート盤には最初BUCK-TICKも参加し、タイトルでもある「365」をカバーする筈だったが、事情により実現出来なかった。
2003年には過去の作品がデジタルリマスタリングを施して再リリースされ、また完全コピーバンドである「コケシドール」の発足など再評価されている向きもある。
2005年2月にリリースされた、ザスターリン名義の「電動コケシ/肉」は、日本で発売された最後のソノシート盤となった。
ちなみにアメリカのパンクバンドデッドケネディーズのボーカルジェロビアフラもザスターリンに目をつけており、それが縁となってアメリカで発売されたパンクオムニバス「Welcome to 1984」にザスターリンは日本代表として一曲、収録されることになった。
2008年の新宿スモーキンブギでのライブで、 遠藤と初代ギタリストであった金子あつしが久しぶりに対面した。金子は「10年後にまた一緒にやろうな!」と遠藤に掛け声をかけていて、遠藤は「生きていたらね」と笑いながら返していた。その後、新宿で奇形児GISMのドラマーであった廣島徹の店で落ち合って歓談していたらしい。なお、遠藤は酒を一滴も飲めない。