[00:00.00]《月の珊瑚》
[00:02.42]奈須きのこ
[00:04.17]
[00:05.45](一)
[00:08.19]眉唾な話だけど
[00:11.16]わたしのおばあちゃんは
[00:12.95]月からやってきた人らしい。
[00:16.79]今年もいよいよ終わりが近づいてきた。
[00:20.76]十一回目の満月の夜
[00:23.23]あと一ヵ月後に今年は死んで
[00:26.06]なんの約束もない次の年を迎える。
[00:30.61]その時までわたしたちが生きている保証は
[00:33.96]あの透明な海月ほどもない。
[00:38.06]今の人類にとって
[00:40.26]月日とは失われるもの
[00:43.42]死という単語はあらゆるものに適用される。
[00:48.07]聞くところによると
[00:49.80]むかしの人たちは
[00:50.86]もっと明るい価値観を持っていたらしい。
[00:54.42]暦は消費するものではなく循環するもの
[00:58.26]巡るものとして扱われていたとかなんとか。
[01:02.65]要は同じ情報の使いまわしだ
[01:05.99]節約にもほどがある。
[01:08.40]かつての人類は贅沢だったというけれど
[01:11.52]私たちから見たら大した倹約家だと思う。
[01:16.54]ただいま西暦、たぶん三千年ぐらい。
[01:21.89]人類はとっくに終わっていて
[01:24.46]毎日は繰り返される保証はなくて
[01:27.66]その代わり誰も争わなくなって。
[01:31.28]人間が何千年もかけて積み上げた文明は
[01:34.65]ぜーんぶ空に捨ててしまって。
[01:37.44]わたしは十何回目かの求婚をふわりとスルーして
[01:42.02]今日も今日とて
[01:43.69]島の高台から海岸線を眺めている。
[01:49.12]「空に水、水に空。
[01:52.81]月の空には砕け散った海がある」
[01:58.25]光る海を見ていると
[02:00.56]知らずおばあちゃんから
[02:02.00]教わった歌がこぼれてしまう。
[02:05.20]正確には
[02:06.45]おばあちゃんのそのまたおばあ
[02:07.99]ちゃんから伝わったもので
[02:10.12]言葉の意味は分かるものの
[02:12.35]その真意は読み取れない。
[02:15.89]祖母を悪く言うようで気が引けるけど
[02:18.85]少女趣味が過ぎるというか。
[02:21.94]終わりの見えた毎日なのに
[02:24.44]夢の中にいるような人だった。
[02:28.72]母も祖母も
[02:30.49]そのまた母も同じような趣味で。
[02:33.25]同じように
[02:34.70]たいへんな美人だったらしい。
[02:38.19]残念ながら
[02:39.70]わたしはちょっと型落ちだ。
[02:42.52]母ほどの美しさはないし
[02:45.30]なにより少女らしさに欠けている。
[02:48.27]それでも求婚者が後を絶たないのは
[02:51.38]ひとえにこの島のおかげだろう。
[02:56.00]「おや。アリシマの君のお帰りですか」
[03:02.15]風を感じて空を見上げると
[03:04.96]真っ黒い飛行機が飛んでいくところだった。
[03:09.02]ごう、という逞しい駆動音。
[03:13.58]月光を遮って浮かびあがる最後の文明
[03:17.56]あるいはその名残。
[03:20.72]鋼の機体は鈍く強く輝きながら
[03:24.95]東の空を目指していく。
[03:29.16]撃墜マーク、これにて十六人目
[03:34.00]しかも今回は新記録だ。
[03:37.12]わたしはいつも以上の無理難題を押しつけて
[03:40.61]一日のうちに求婚者を追い返した。
[03:45.00]島でも前代未聞だと怒られたけれど
[03:48.42]今日ばかりは仕方がない。
[03:50.94]満月の日にやってくる相手が悪い。
[03:54.13]場の空気を読め、というヤツである。
[03:58.14]酸素は薄くなったけど
[04:00.38]愛を語るのならそれぐらいは常備してほしい。
[04:05.67]わたしの住む島は
[04:07.54]人口五十人足らずの小さなコロニーだ。
[04:12.02]都市のある本土は海を隔てた遙か彼方。
[04:16.91]島には港がなく
[04:19.18]三日月形の海岸には
[04:21.40]島特有の珊瑚礁が広がっている。
[04:25.78]島の人々にとって
[04:27.71]珊瑚礁はごく普通のものだけど。
[04:30.87]都市部の人々にとっては
[04:32.85]宝石より価値のあるものらしい。
[04:36.49]おばあちゃんの頃から
[04:38.42]この島は聖域として扱われている。
[04:42.41]海から入ることは固く禁じられ
[04:45.57]飛行機なんて貴重品を持っている人
[04:47.71]しか上陸できない。
[04:50.88]わたしがお姫さんと呼ばれるのも
[04:53.73]本土の人たちにとって
[04:55.61]この島が特別なモノだからだ。
[04:59.55]人類復興の希望の星、と彼らは言う。
[05:04.93]わたしたちにとっては極めて日常的な
[05:08.46]いつ終わっても
[05:09.93]『そんなものか』的な環境にすぎないのだけど。
[05:14.66]「でも残念。
[05:16.68]空は飛べても
[05:18.39]月のサカナはやっぱり無理なのね」
[05:22.67]わたしは毎回
[05:24.64]求婚者に無理難題を押しつける。
[05:27.98]今回のお題は月のサカナだった
[05:32.80]月は一方通行の世界だ。
[05:36.12]行く方法はまだ残っているらしいけど
[05:39.10]帰ってくる方法がないらしい。
[05:42.58]行くだけなら現実的だけど
[05:44.89]戻ってくる事はできない。
[05:48.03]生きていながら見る事のできる
[05:50.66]現実的な死の世界。
[05:54.51]月に行け
[05:55.66]というだけでも酷な話なのに。
[05:58.21]その上
[05:59.30]居るはずのない
[06:00.11]サカナを取ってこいというのだから。
[06:02.61]アリシマの君が怒って帰るのも頷ける。
[06:06.90]けれど誓って
[06:09.14]わたしは本気なのである。
[06:12.31]難題をこなしたのなら
[06:14.23]誰であろうと一生を捧げる覚悟。
[06:17.57]だってそれぐらいでしか
[06:19.42]わたしは愛を測れないから。
[06:23.27]この星からは多くのモノが失われたけれど
[06:26.76]その最たるものは
[06:28.74]人を愛する気持ちだという。
[06:32.99]月が死の世界になってから幾星霜。
[06:37.03]いや
[06:38.17]人間にとっては初めから死の世界だったから
[06:41.82]元に戻った、と言うべきか。
[06:45.34]月への移住計画は
[06:47.58]増えすぎた人口対策の一環だったという。
[06:51.84]月は新しい開拓地になって
[06:54.75]移住した人々は月面に都市を
[06:57.69]国家を作るに至った。
[07:00.88]けれどその後、あの大災害が訪れた。
[07:06.00]地上もポールシフトで大変だったらしいけど
[07:09.46]人類に訪れたものはもっと決定的で
[07:13.42]かつ形のないエンドロールだった。
[07:17.01]なんというか。
[07:19.67]人類は唐突に、情熱を失ったのだ。
[07:26.18]それは開拓への熱であり
[07:28.82]解明への熱であり
[07:31.05]繁殖への熱だった。
[07:34.15]うちの息子が引きこもったのです
[07:36.63]なんてレベルではなく
[07:38.55]人類規模で
[07:40.14]『何もかもどうでもよくなった』のだ。
[07:43.33]こっち側の人たちは
[07:45.43]文明のほとんどをあっち側に押しつけた。
[07:50.16]地上では文明がなくても生きていける
[07:53.36]でも月では文明なくして生きてはいけない。
[07:58.01]なので地上の人たちは
[08:00.47]『人類の叡智を保存するのはおまえたちの役割だ
[08:04.71]我々は正直、もう面倒になった』
[08:08.71]なんて風に
[08:10.43]すべてを月に預けてしまった。
[08:13.86]その後
[08:15.37]わずか半世紀で
[08:16.96]月と地上は没交渉になった。
[08:20.20]どちらの人類も
[08:22.00]もう交換するものはない
[08:23.94]と閉じこもった。
[08:26.52]こっちはこっちの資源だけで
[08:28.43]なんとか回るようになっていたし。
[08:30.98]月も月で
[08:32.39]必要なだけの環境は整えられた。
[08:37.05]月の明かりが途絶えたのは
[08:39.61]それから何十年か後の事らしい。
[08:43.73]一方、地上の人口も激減していった
[08:48.75]なにしろ増やす気がなくなったのである
[08:52.12]放っておけば五十年ほどで種は途絶えてしまう。
[08:57.15]それでもなんとか生き延びているのは
[08:59.75]十人に一人の割合で
[09:02.09]“まだ頑張れる”物好きがいたからだ。
[09:07.31]自分だけで手一杯なのに
[09:09.48]他人にまで気を配れるというマメな人たち。
[09:13.72]そんな物好きたちが集まって作り上げた
[09:16.96]『かつての』人間の集まりが
[09:19.51]都市部と呼ばれる生活圏。
[09:22.17]行ったコトがないので詳しくはなんとも
[09:26.18]名を人類復興委員会
[09:30.11]生命の基本に立ち返ろう、という運動
[09:34.28]その原理を愛という。
[09:37.63]わたしにはそれが本気で分からない
[09:41.51]気持ち悪いのではなく
[09:43.70]互いを思い合うという状況が
[09:46.50]どんなものなのか想像できない。
[09:49.70]それはほんとうに気持ちの良いコトなのだろうか
[09:54.47]きっと不具合しか生じない。
[09:56.97]もっと系的なもので相互補助した方が
[10:00.24]よっぽど気持ちはいいと思う。
[10:03.08]そこには安心があり
[10:05.07]打算があり、明確な作業がある。
[10:09.28]見えもしない相手の心を理解しよう
[10:11.82]なんて行為は、それこそ現実的ではない。
[10:16.98]このように
[10:18.98]わたしが求婚される度に
[10:20.82]無理難題を押しつけるのは。
[10:23.14]自分では愛が測れないから
[10:26.23]相手に測ってもらっているだけなのだ。
[10:30.51]わたし以上に価値のあるものを手に入れて
[10:33.24]なお引き替えにできるなら。
[10:35.62]その人は確かに
[10:37.38]わたしを必要としているのだと証明できる。
[10:42.11]殿方も人間も好きだけど
[10:45.12]愛だけは理解できない
[10:47.82]でもそれなりに幸福だ。
[10:50.69]太陽と水と空気があれば
[10:53.27]なんとなく生きていけるのがわたしたちだし。
[10:57.51]あぁ
[10:58.70]こんなだから人間は終わってしまったのでしょう
[11:01.98]と自己嫌悪もなくはないけど。
[11:06.65]「星はまたたく、海はさざめく
[11:10.92]人恋しくて珊瑚は謳う。
[11:14.14]わたしたちは海月みたいに
[11:16.72]ふわりふわりとその日ぐらし」
[11:21.10]暗い野原で歌いながら
[11:23.25]くるくるとステップを踏む。
[11:26.84]「おや。人生を海月に喩えるとは、また力強い」
[11:34.40]そんなわたしの独白をさえぎる声
[11:38.13]見えない膜に包まれたような
[11:40.65]男の人の声だった。
[11:44.84]「失礼……さん、というのは貴方ですか?」
[11:51.50]名前を呼ばれて振り返ると
[11:54.19]妙チクリンなものが浮いていた。
[11:57.51]ランチバッグ程度の大きさの
[11:59.98]ブリキの乗り物
[12:02.11]お刺身を載せる舟みたい。
[12:05.39]その上に
[12:07.02]これまたブリキで出来たような人形が乗っている
[12:11.55]人形の表面はヤカンみたいにつるつるで
[12:15.33]どこもかしこものっぺらぼう。
[12:18.31]顔の部分には透明な覗き穴があるのだけど
[12:22.63]月の光が反射して
[12:24.81]中の様子は分からなかった。
[12:28.01]ともあれ
[12:29.35]名前を呼ばれた以上は
[12:31.40]挨拶を返さなければ。
[12:34.27]「こんばんは。はじめまして
[12:37.42]でいいのかしら?」
[12:39.29]「これはご丁寧に、私こういう者です」
[12:44.68]ブリキの彼は小さな紙切れを持ち出した。
[12:49.74]何に使うものかは分からないけど
[12:52.91]丁寧に差し出してくれたので
[12:55.06]こちらも丁重に受け取った。
[12:58.82]「島の外から来た人?」
[13:01.29]「はい。貴方に会いに来たのです。
[13:05.21]ご迷惑でなければ
[13:06.82]お話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
[13:11.08]わたしは今度こそ目を丸くして
[13:13.89]失礼なコトにまたたきなどしてしまった。
[13:17.90]新しい求婚者?珍しい。
[13:22.74]いろんな人たちに会ってきたけど
[13:25.14]手のひらに乗るぐらいの人は初めてだ。
[13:28.99]「いえ、自分の職務は配達なのです
[13:33.30]この島に訪れたのは仕事が半分
[13:36.47]個人的な趣味が半分です」
[13:39.58]膜のかかったような声は
[13:41.89]あのブリキの服ごしだからだろうか。
[13:45.86]ふわふわ浮かぶ小さな舟と
[13:48.61]見たこともない格好の来訪者。
[13:52.00]わたしは興味を抑えられず
[13:54.40]つい、会話より観察に没頭してしまった。
[13:59.62]ブリキの彼は気にした風もなく
[14:02.55]いまの時刻とか、今の年代とか
[14:06.60]今の気候なんかを話しはじめた
[14:09.84]世間話のつもりらしい。
[14:13.10]わたしはもちろん空返事
[14:15.65]会話はこれっぽっちも成立しない。
[14:19.55]言葉はほどなくして尽きた
[14:22.86]小さな彼はやや困ったように頰を搔いている。
[14:26.91]わたしは自分の身勝手さを恥じて
[14:30.45]会話のソースを提供する。
[14:33.44]「さっき、趣味が半分って言っていたけど?」
[14:37.63]「はい。私は商人もしているのです。
[14:41.36]貴方を訪ねたのもその一環です。
[14:44.84]貴方の持つ物資と
[14:46.78]私の持つ物資を交換したいのですが
[14:49.80]いかがでしょうか?」
[14:52.02]必要なものを仕入れにきたのです
[14:54.92]と彼は言った。
[14:57.50]わたしは本気で困ってしまう
[15:00.18]だって
[15:01.28]こんな珍しい人が欲しがるモノなんて
[15:04.19]この島には何処にもない。
[15:07.28]「他をあたるべきよ
[15:09.31]わたし
[15:10.54]そんな貴重なものは持っていないわ」
[15:13.96]「いえ、商人の基本は
[15:17.08]足りないモノを買う
[15:18.63]というコトです。
[15:20.40]こちらで貴重とされるものは
[15:22.76]私には有り余っています
[15:25.21]ですから、その逆もあるのです。
[15:29.36]物語を知りませんか
[15:32.00]どこにもない
[15:33.46]出版されていないものです」
[15:36.78]わたしはまたも
[15:38.61]特に理由はなく
[15:40.48]ブリキの彼をまじまじと見つめてしまった。
[15:45.03]大人のように落ち着いた彼が
[15:47.61]子供みたいな要求をしたからだろうか。
[15:51.78]すとん、と言葉が胸に落ちる。
[15:55.55]普段なら馬鹿にするところなのに
[15:58.07]わたしはごく自然に
[16:00.14]その仕入れに協力したくなっていた。
[16:04.62]「それなら一つ
[16:06.31]お望みの歌があるわ
[16:08.78]おばあちゃんから教わった話だけど
[16:11.52]それでいいかしら」
[16:13.62]「口伝とはまた高価なものを。
[16:17.30]ですが申し訳ありません
[16:19.43]私は貴方たちの言葉を正しく聞き取れないのです
[16:23.56]お手数ですが、文字にしていただけませんか」
[16:27.74]ブリキの彼は
[16:29.42]わたしたちの言葉に疎いらしい。
[16:32.67]よく今まで話せたものだと呆れたけれど
[16:36.16]振り返ってみれば
[16:37.73]そんな流暢には会話していなかったっけ。
[16:42.63]「無理よ。わたし、読み書きができないもの」
[16:47.26]「ええ、存じ上げております。
[16:51.18]次の満月に帰りますので
[16:53.66]それまでに本にしていただければ。
[16:57.26]ですぎた真似ですが
[16:59.08]私がご教授してさしあげましょう」
[17:02.98]彼はとん、と胸を叩いた
[17:06.41]任せろ、という表現らしい。
[17:09.62]ちっとも頼もしくない
[17:12.49]勉強不足がこんな事で祟るなんて。
[17:16.07]人類はとっくに終わったのに
[17:18.47]わたしの人生は波乱含みだ。
[17:22.30]それは、まあ、それとして。
[17:26.49]「ところで。海月が力強いって、どうして?」
[17:33.04]「ずいぶんと昔の話ですが
[17:35.92]海月の仲間の一つが
[17:37.51]細胞死による老化問題を解消しています。
[17:41.83]永続を実現させた数少ない動物です
[17:46.64]海月というのは
[17:48.50]存外にたくましい生命なのです」
[17:51.73]彼はやっぱり
[17:53.68]丁寧な口調で小難しいデータを返した。
[17:57.92]
[17:59.64](二)
[18:02.53]むかしむかしのお話です。
[18:05.73]影の海と名付けられた荒野に
[18:09.20]少女の姿をした
[18:11.23]一つの石がありました。
[18:14.81]美しい亜麻色の髪
[18:17.38]あどけない瞳と薄桃の唇。
[18:22.76]しなやかに伸びたヒトっぽい手足
[18:26.82]しみ一つなく、デコボコもなく
[18:30.86]磨かれた石灰のような肌。
[18:34.15]それは人の美意識の統計によってかたどられた
[18:38.65]万人に愛される少女像でした。
[18:43.18]もとからそういうカタチだったのか
[18:46.34]後からそういうカタチになったのか。
[18:50.53]ピグマリオンの伝説も
[18:52.54]ここでは遠い異国の話。
[18:55.90]はっきりしているのは
[18:58.07]彼女は生まれながらのお姫さまで
[19:01.18]多くの人たちに望まれて
[19:03.54]目を覚ましたというコトだけ。
[19:07.04]世界は一面の荒野でしたが
[19:10.25]彼女のまわりにだけはくるぶしほどの深さの湖と
[19:15.28]見上げるばかりの花弁が咲いています。
[19:19.02]もちろん
[19:20.23]石灰を彫り込んだだけのニセモノですが。
[19:25.46]空に氷、氷に空。
[19:30.81]この冷たい星を
[19:32.49]温かな氷で包んでほしいと
[19:35.11]彼女はお願いされました。
[19:38.16]誰にお願いされていたのかは
[19:40.94]もう定かではありません。
[19:44.33]彼女が生まれた時には大勢の人がいたけれど
[19:47.97]少しうたたねしている間に
[19:50.75]みんなキレイに消えさってしまったからです。
[19:55.54]ひとりぼっちになったところで
[19:58.01]彼女は多くの仮説を楽しみました。
[20:01.74]まずはシステムの不備でみんな死んでしまった説
[20:06.55]でも
[20:07.56]彼女が生きているかぎりそれはありません。
[20:11.62]必要なモノは今も供給しているし
[20:14.76]不慮の事故での全滅はないでしょう。
[20:18.80]次に、みんな眠っている説
[20:23.29]起きているのも面倒になったので
[20:26.06]いっせえのせでまぶたを閉じた
[20:27.94]可能性も大ありです。
[20:31.08]仕方なく星の表側に感覚を伸ばしてみましたが
[20:35.28]人々の反応はありません。
[20:38.49]彼らは本当に
[20:40.46]この国から消え去ってしまったのです。
[20:44.92]あれこれ仮説を潰していく中
[20:47.98]ふと、彼女はこの国の法律を閲覧しました。
[20:52.91]司法曰く、こちらの住人は
[20:57.17]あちらの住人との恋を禁じる。
[21:01.39]このルールを破ったものは
[21:03.10]地上への落下刑に処す。
[21:06.44]もしかすると
[21:08.13]人々はその罰でみーんな
[21:10.69]あちら側に落ちていったのかもしれません。
[21:14.91]うんうん、と彼女は頷きました。
[21:19.29]いえ、首は一ミリも動かないので
[21:23.27]気持ち的に頷きました。
[21:26.43]信憑性はこれがいちばんだったのです。
[21:31.54]それでも彼女は真面目だったので
[21:34.97]望まれた仕事を続けます。
[21:38.34]まず都市部への余分な元素提供をカット
[21:43.09]娯楽施設はもう必要ありません
[21:46.48]その分を環境調整に費やします。
[21:50.99]影の海は半世紀ほどで
[21:53.93]樹木と空を完備した都市になりました。
[21:58.34]樹木は石灰で
[22:00.34]空は氷を張っただけのニセモノですが
[22:03.87]とにかくオーダーには応えたのです。
[22:07.60]人々が望んだコトは
[22:09.98]人々さえいなければ
[22:12.33]こんなに簡単にできることでした。
[22:16.71]月に七つの海を作ってからさらに半世紀。
[22:22.26]望みを叶えれば戻ってくると思われた人々は
[22:26.08]けれど影も形もありません。
[22:30.22]音のない世界にひとりきり
[22:33.56]ときどき、人々は追放されたのではなく
[22:37.76]自分だけこの星に追放して旅だったのでは
[22:41.60]と真実に気付きそうになる事もありましたが
[22:46.19]あくまで仮定なので
[22:48.10]ひび割れるコトもありません。
[22:51.78]彼女は氷に映る
[22:54.08]ここからでは決して見ることのできない
[22:56.90]青い星を見あげます。
[23:00.63]人々はあの星に旅だったのでしょうか。
[23:05.29]せっかく美しい森を作ったのに
[23:09.06]誰も見てくれないのでは
[23:11.63]それこそ骨折り損というものです。
[23:16.15]なにしろ彼女は
[23:18.26]この森になんの思い入れもないのですから。
[23:23.08]ある日のことです
[23:25.99]砂を踏む気配で目が覚めました。
[23:29.31]そういえばちょっと前に
[23:31.44]こつん
[23:32.17]と体に何か当たった気がする彼女でした。
[23:37.36]意識を起こすと
[23:39.32]驚いたことに
[23:41.08]並木道を何かが歩いてきます。
[23:45.40]ずんぐりとした体格
[23:47.90]可動範囲の少ない歩行。
[23:51.09]自分と同じかそれ以上の
[23:53.39]すべすべで単色の肌。
[23:56.68]それはブリキで出来たヤカンみたいな
[24:00.46]およそこの世の美意識とはかけはなれた
[24:03.70]冗談みたいな生き物だったのです。
[24:08.02]彼女は驚きに目を見はりながらも
[24:10.95]未知の体験に胸を躍らせました。
[24:14.15]だってはじめて、そして遂に
[24:17.49]この星に宇宙人がやってきたのです!
[24:21.94]「待て。
[24:23.17]話が違う
[24:25.01]なんだって月面に宇宙人がいる?」
[24:28.75]まあ、それも彼女の勘違いだった訳ですが。
[24:35.54]やってきたのは地上から昇ってきた人間でした
[24:41.06]宇宙人と言えば確かに宇宙人なのですが。
[24:45.34]今までの人々と同じく
[24:47.67]会話をするコトはできません
[24:50.81]彼女には喉がないのです。
[24:55.19]それでも彼女は今まで通り
[24:57.89]彼の独り言を解析します。
[25:01.52]分かったのは些細なコト
[25:04.37]彼は周囲の反対を押し切って
[25:07.35]自分からこの星にやってきたらしいのです
[25:11.79]辿り着くコトに意味のない。
[25:14.67]発つ理由も
[25:16.20]見返りもない一方通行の旅を、ひとりで。
[25:23.00]「そうか。生存の為の物資はあっても
[25:27.42]精神面での不足は解決できなかったのか。
[25:31.70]自滅とは、さすがは地上より進んだ文明だ」
[25:37.74]彼は都市の機材を使って
[25:40.12]かってに生活をはじめました
[25:42.98]ゆうゆうじてき、というヤツです。
[25:47.53]彼は十二時間周期で彼女のところにやってきては
[25:51.57]タンクに水素が溜まるまでの間
[25:54.23]独り言を続けます。
[25:57.19]「人のカタチをしているからといって
[26:00.10]人間の文化を押しつけるのは
[26:01.88]傲慢ではないだろうか」
[26:04.88]彼はそう言って
[26:06.26]彼女のドレスを脱がせようと試みましたが
[26:09.60]それは全力で阻止しました。
[26:13.05]信じられないでしょうけど
[26:15.40]彼女の体が彼女の思った通りに動いたのは
[26:19.64]これがきっかけなのでした。
[26:23.52]「昨日は申し訳ないことをされた
[26:26.52]あやうく火星まで飛ばされるところだった。
[26:30.02]ここが地上なら
[26:31.80]今ごろ君は檻の中だ。
[26:34.46]君には少し
[26:36.29]人間の機微を教授しなくてはならないようだ」
[26:40.49]彼は当然のように彼女の助けを受けながら
[26:44.44]こんな辛辣なコトを言うのです。
[26:48.49]それでも彼の語りは新鮮で
[26:51.40]ふしぎな親近感があるのです。
[26:55.09]この状況なら
[26:56.77]誰であれいい人に見えてしまうと思うけど。
[27:00.26]それはあえて追及しません
[27:04.01]彼女にとって彼は新しい世界でした。
[27:09.35]“こんな素晴らしい方が
[27:11.69]どうして死の世界にやってきたのだろう?”
[27:15.18]信じがたいコトですが
[27:17.63]彼女は彼のために
[27:19.53]そこまで心を痛めたりもしたのです。
[27:23.82]多くの仮説から最有力候補にあがったのは
[27:27.90]彼も人々と同じだろう、というものでした。
[27:34.28]こちらの世界の住人があちらの住人に恋をすると
[27:39.04]罰として落とされる。
[27:41.32]それと同じように
[27:43.32]彼もこちらの住人に恋をしたから
[27:46.45]ここまで昇ってきたのではないでしょうか。
[27:50.76]ですが皮肉なコトに
[27:53.19]こちらの住人はみな消えてしまいました。
[27:57.82]彼は恋のためにやってきて
[28:00.48]元の世界に帰る術をなくしたのです。
[28:05.36]彼女は悲しくなって
[28:07.72]せめてよい暮らしを
[28:09.10]と今まで以上に励みました。
[28:13.44]けれど
[28:15.69]「無駄な消費はよくない
[28:18.13]無制限に使っているが
[28:20.09]底をついたらどうしてくれる。
[28:22.74]君が枯渇したら
[28:24.72]こちらも共倒れなんだぞ」
[28:27.73]彼女の行為はいつだって空回り。
[28:32.30]この頃には人間の言葉も覚えて
[28:35.28]発声器官もまねて発話をしますが
[28:38.35]彼は聞く耳を持ちません。
[28:41.41]むしろ
[28:42.55]人間らしく話しかければ話しかけるほど
[28:45.92]嫌悪感をあらわにしていくのです。
[28:50.08]彼女は彼のために色々なものを用意しました
[28:55.29]かつてないほど頑張りました。
[28:58.80]生命の原理
[29:00.66]原子の法則をねじまげるぐらい努力しました。
[29:05.69]もう説明する必要はないでしょう
[29:10.26]彼女は彼に、それほどの恋をしたのです。
[29:16.05]“とても素敵なヒトでした
[29:19.09]わたしのような石に
[29:21.60]生命の定義をしてくれたのです。”
[29:25.77]いまも
[29:26.83]その言葉は多くのサンゴに焼き付いています。
[29:31.20]なのに彼は礼も言わず
[29:33.40]ただ消費するばかり。
[29:37.17]“わたしはヒトに近づけたでしょうか?”
[29:41.41]そう語りかけるように氷の下で踊ります。
[29:46.24]彼女の両足が地表から解き放された
[29:50.31]はじめての日のコトです。
[29:54.63]「どちらかというと
[29:56.53]君の体は珊瑚のようだ」
[29:59.79]思えば
[30:01.41]それが一度きりの褒め言葉でした。
[30:06.11]いや、でもおばあちゃん
[30:09.07]これは褒め言葉じゃありません
[30:11.62]嫌みだと思います。
[30:14.93]でも彼女は
[30:16.61]その言葉がとても
[30:18.55]とても嬉しかったようなのです。
[30:22.03]それから十二時間はずっと
[30:24.49]珪素で出来た自分の体が誇らしかったほどに。
[30:30.98]月日にすると半年ほど
[30:33.73]ふたりの時間は続きました。
[30:37.04]終わりはあっさりしたものです。
[30:40.40]彼は船を修理しきると
[30:43.04]彼女を抱きかかえて船に乗り込みました。
[30:48.05]彼女はここのところ弱っていて
[30:50.90]動くこともできなかったので
[30:53.42]乗船も
[30:54.72]その後の処理も
[30:56.16]簡単に済まされてしまったのです。
[31:00.63]影の海を離れるのは不安でも
[31:03.82]彼がいるのなら喜ばしい。
[31:07.98]彼女はせまい
[31:09.51]ひとりぐらいしか乗るスペースのない船の中で
[31:12.90]幸せそうに目をつむります。
[31:17.09]「人間がイヤで
[31:19.23]何もかもを見限って
[31:21.21]月に昇ってきた」
[31:25.08]声は船の外側から。
[31:28.61]今まで誰もいなかった
[31:31.11]これから誰もいなくなるはずの
[31:33.66]荒野から響いてきます。
[31:37.99]「そんな私が、人を愛する道理がない」
[31:43.52]体は動きません。
[31:45.83]気付いても、扉は開きません。
[31:50.19]彼女はもう星から離れてしまったから
[31:53.15]星も動いてはくれません。
[31:56.47]星を覆っていた氷の空は
[31:59.34]夢のように砕けていきます。
[32:03.16]「君が私に向けている好意は
[32:06.00]愛情ではないと思う。
[32:08.32]単に、君が人を知らないからだ」
[32:13.40]彼女は覗き窓にすがりついて
[32:16.20]忘れていた掟を思い出しました。
[32:19.53]あちらの人間に恋をすると
[32:22.59]罰として、永遠に別れるのです。
[32:27.62]「動物的な感情を満たしたいだけなら
[32:30.90]あの地上には相応しい相手が山ほどいる。
[32:34.99]君はそこで生きればいい」
[32:38.69]ああ、彼はここに残るのだと
[32:42.42]彼女は嘆きました。
[32:44.94]同時に
[32:46.25]それが彼にとっていちばんいい選択なのだと
[32:49.81]理解してもいたのです。
[32:53.47]「しかし。君はどうあっても
[32:57.03]あの星にとって善いモノではないだろう。
[33:00.64]私は地上の人間を
[33:03.18]二度殺すことになるな」
[33:06.65]以前の彼女からすればちっぽけな火花。
[33:11.17]今の彼女にすれば
[33:12.81]恐ろしいほどの光と熱を吐き出して
[33:16.06]船は地表を離れていきます。
[33:19.96]銀色の大地。
[33:22.94]彼女そのものだった世界が
[33:25.64]他人のように遠く遠く。
[33:29.86]ヒトになりかけていた彼女の目には
[33:32.70]遠ざかる小さな星。
[33:36.38]暗い海に独りきりで
[33:38.80]きらきらと輝くのです。
[33:42.84]けれど
[33:44.37]青い宙を航る最中でも
[33:47.30]彼女に涙する時間はありませんでした。
[33:51.50]彼は本当にひどい人間で
[33:54.39]彼女の安全なんて配慮していなかったのです。
[33:58.76]船には地上の重力圏に
[34:00.62]入るだけの燃料しかなく。
[34:03.30]六倍の重力下での不時着に
[34:05.41]耐えきれる設計ではありません。
[34:09.07]船は空で分解し
[34:11.77]彼女はそれはもう悪い冗談のように
[34:14.74]真っ逆さまに青い海に落ちました。
[34:18.67]それがこの島の始まり。
[34:22.94]彼女は一命を取り留めましたが
[34:25.53]落下のショックで
[34:27.00]記憶がところどころ欠けてしまいました。
[34:31.61]島に新しい珊瑚ができたのはこの時から。
[34:36.42]彼女はここで暮らし
[34:38.64]子を育み、生涯を終えました。
[34:43.95]ただ、毎月。
[34:47.40]満月の夜になると空を見上げては
[34:51.77]幸せそうに笑っていたというコトです。
[34:57.49]かくして、わたしのはじめての創作は
[35:01.06]無事終わりを迎えた。
[35:05.35]「ところどころ貴方の主観がまじっていますね
[35:08.71]一部、特定の人物の描写に偏見もみられます」
[35:14.30]このように
[35:15.80]ブリキ編集には
[35:17.09]三回ほどダメ出しをもらっていたが。
[35:20.78]明日は満月。
[35:23.01]わたしはまる一ヵ月
[35:25.23]小さな配達人に
[35:26.96]物書きを教えてもらっていた事になる。
[35:30.90]彼はこちらの言葉をうまく聞き取れないため
[35:34.55]会話はたまにすれ違いはしたものの
[35:37.30]おおむね刺激的な時間だった。
[35:40.92]はじめこそ彼の姿に面食らっていたけれど
[35:44.90]数日のうちに物珍しさはなくなった。
[35:49.15]あいかわらずガラスの反射で
[35:51.59]ブリキの中は覗けないけれど。
[35:54.63]彼は真面目で
[35:56.36]好奇心旺盛で
[35:58.26]なにより正直だった。
[36:01.62]はじめから
[36:02.96]噓も誤魔化しも覚えない生き物のように。
[36:08.81]「読み終えました
[36:11.16]感想を口にしてよろしいでしょうか?」
[36:14.80]丁寧に訊ねられて
[36:16.75]緊張気味に頷いた。
[36:19.82]昔話を文字に起こしただけとはいえ
[36:22.98]なかなかに気恥ずかしいものがあるのである。
[36:27.63]「どうぞ。お手柔らかにお願いします」
[36:32.10]「私の知っていたものとは大分違いますが
[36:35.44]たいへん楽しませていただきました。
[36:39.18]この彼女は、実に可愛らしい方ですね」
[36:43.78]「そうかしら。
[36:45.62]少し無防備というか
[36:47.87]平和すぎると思うんだけど。
[36:50.66]どのへんが気に入ったの?」
[36:53.48]「行動に揺らぎがありません
[36:56.14]正直な人だったのでしょう。
[36:58.59]周りが見えていなかったのは
[37:00.69]一つの事だけを信じたからです」
[37:04.38]「ずいぶんと肩入れするのね
[37:06.59]そんなの
[37:07.69]わたしの本だけじゃ断定できないのに」
[37:11.01]「できますよ
[37:13.22]ひとかけらの後悔も見られませんでしたから。
[37:17.44]彼女から読み取れるのは
[37:19.48]最後まで幸福であった事実だけです」
[37:23.91]わたしは押し黙ってしまう
[37:26.90]そんなつもりはなかったのだ。
[37:29.20]わたしはむしろ
[37:30.59]反感をこめて筆をとっていたはずなのに。
[37:35.30]わたしから見れば
[37:37.11]この本はひどい物語だ。
[37:40.83]そう
[37:42.69]子供の頃から
[37:44.19]おばあちゃんの話には疑問があった。
[37:47.59]尽くした末に捨てられたのに
[37:50.24]どうして彼女はあんなにも幸福だったのか。
[37:55.25]裏切られてもかまわない献身が愛だというのなら
[37:58.99]わたしはやっぱり
[38:00.73]そういうものとは反りが合わないと思う。
[38:05.32]「わたしは悲劇として書いたつもりなんだけど」
[38:09.91]「彼女の主観は、貴方の主観です
[38:14.20]貴方たちはそういう生き物だ。
[38:17.20]母方の記憶を自分のものとして受け継いでいます
[38:21.78]ですから、どんなに反感を持っていても
[38:25.47]この物語の根本からは逸脱できない。
[38:29.40]貴方がどう思おうと
[38:31.38]貴方の遺伝子には
[38:33.21]原初の気持ちが刻まれているのです」
[38:38.01]「……よく分からないけど
[38:40.73]お眼鏡にかなった、ってコトでいいの?」
[38:45.17]わたしの声は少しだけ不機嫌だった。
[38:48.68]彼はこくん、とブリキの頭を上下させる。
[38:54.13]「私の期待とは違いましたが
[38:56.91]それ以上のものを頂きました
[38:59.63]お気に入りの一冊です」
[39:02.41]「期待? 何を期待していたの?」
[39:06.75]「珊瑚の話です
[39:09.57]私の国からでは
[39:11.53]この島の珊瑚はとても不思議に映るのです。
[39:15.82]どうしてこの島の珊瑚は光るのか
[39:19.27]貴方なら知っているかと思ったのですが」
[39:23.99]この島唯一にして、最大の特産品。
[39:28.66]満月の夜に光る珊瑚。
[39:32.41]珊瑚のカタチをしたあの樹木たちは
[39:35.73]周期的に大量の酸素やら
[39:37.92]窒素やらを生みだしている。
[39:40.44]結果として
[39:41.98]少しだけ人間の歴史を延命させているそうだけど
[39:45.99]そんなのはどうでもいい話だし。
[39:49.44]わたしにとっても別段
[39:51.50]とりあげる事項ではなかったのだ。
[39:55.58]「貴方たちにとって
[39:57.53]明かりを灯す珊瑚は当たり前のものなのですね。
[40:02.33]おそらく
[40:03.66]あの発光はただの生態機能でしょう
[40:07.04]こういった偶然もあるのだと判断します」
[40:11.21]それだけ言って
[40:12.72]彼は舟の中に隠れてしまった。
[40:16.01]いや、潜っていった。
[40:19.78]ほどなくして
[40:21.17]彼は自分と同じぐらいの大きさの包みを
[40:23.79]引っ張り出してきた。
[40:26.24]「もうどこに届けていいものか困っていましたが
[40:30.00]調べた結果
[40:31.50]貴方が受取人に該当するようです。
[40:35.06]これは取引ですが、私の職務でもある
[40:39.34]どうぞ、お受け取りください」
[40:43.01]包みには貝殻が一つ
[40:46.14]真っ白い、銀河星雲のような貝殻だ。
[40:51.01]わたしは直感的に貝殻を耳にあてた。
[40:55.88]ざあ、ざあ。
[41:00.49]巻き貝の渦巻き構造
[41:03.17]オルガン官の螺旋が
[41:05.03]波の音を反響させる。
[41:08.52]ざざ、ざざ
[41:11.65]CQCQ、聞こえますか。
[41:16.78]波のざわめきの後から
[41:19.06]静かな記録が伝わってくる。
[41:22.90]……ああ、これはレコーダーだ。
[41:27.77]何処か、遙か、見知らぬ人の物語を
[41:32.93]音として記録している。
[41:36.48]「私には意味が分からないものです。
[41:39.62]一日預けますから
[41:41.64]気に入ったのなら貰ってください
[41:43.89]その本と引き替えです。
[41:46.24]それでは明日」
[41:49.11]小さな彼は舵を握って
[41:51.85]船頭を空に向ける
[41:54.46]わたしはあわてて声をかけた。
[41:57.21]この者の加速力
[41:59.17]機動性はなかなかに侮りがたく
[42:02.06]目を離すと一瞬で飛んでいってしまうのだ。
[42:05.26]悔しいことに
[42:06.95]捕まえられたコトは一度もない。
[42:10.54]なんでしょう?と振り返る彼に一言。
[42:14.83]「評価をまだ聞いてない。それで、点数は?」
[42:20.11]「いやだな。
[42:22.10]本に点数をつけるなんて
[42:24.55]できませんよ」
[42:26.71]照れくさそうに言って
[42:28.80]舟は西の空に消えていった。
[42:32.44]はじめて聞いた
[42:34.60]感情のこもった
[42:36.66]人間らしい声だった。